『テッド2』- 質のいいコメディはシリアスな話を超える

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何年か前に今は亡き三國連太郎がインタビューで、「質のいいコメディに比べたらシリアスな話の方が逆に滑稽なもんです」と語っている映像を見た。三國連太郎と言えば『異母兄弟』という映画で老人を演じるために前歯を10本抜いたという恐ろしい俳優魂の持ち主。そんな彼が「コメディ」というジャンルを賞賛したことに衝撃をうけた。それ以来、素晴らしいコメディに出会った時にぼくはいつもこの言葉を思い出す。『テッド2』を見た時もそうだった。

ではなぜコメディが真面目な話より優れているいるのかについて、ぼくが感じる2つの理由をあげたい。

目次

ユーモアは人と人の壁をあっさりとっぱらう

低予算で作られ、予想以上の大ヒット映画となった、命を宿した下品なテディベア・テッドとその親友ジョン(マーク・ウォールバーグ)が主役の『テッド』。その続編である『テッド2』はテッドが人間として認めてもらうための裁判をする話だ。これはテッドの声を担当している、監督セス・マクファーレンがかつて奴隷だった黒人が人間としての権利を求めたさいに、奴隷は「持ち物」なのか「人間」なのかで争われた裁判の話を知って、考えついたストーリーだ。

 

しかしそんな重大な史実が元になっているにもかかわらず、相変わらずこのテッドは、主人公がクマのぬいぐるみという非現実感をいいことに、ド下ネタはもちろん、酒・タバコ・葉っぱに差別用語もやりたい放題だ。盲目の男性や黒人男性をイジりたおすというモラルもクソもないシーンまである。それはマク・ファーレン監督の悲惨な話に対抗できるのはコメディだという哲学だと思う。この映画をみていると人種や障害への差別心が少なくなっていくのを感じる。むしろどんな人種や障害の人にも遠慮なく接するテッドたちの姿勢から「人間はみんな対等」という大事なことを教わる。そして気を使いすぎて逆に差別的な視線になっているのはぼくの方なのかもしれないと気づかされる。

 

金城一紀原作で、2001年には窪塚洋介主演で映画化もされた『GO』という作品の中に、在日韓国人である主人公・杉原の父親である秀吉が、新しく職場に入ってきた若者に自分が「在日」だと告げたら「へぇ〜そうなんですか」とあっさり返された驚きを語る場面がある(確か漫画版)。その出来事から秀吉は若い世代には在日韓国人に対する偏見という、そもそもの概念がなく、在日で何が悪い!と声高に叫んでいる自分たちが逆に差別をあおっているのかもしれないという考えをもつ。『ted2』を見て感じた気持ちもこれと似ていて、「差別しちゃいけない」という考えが強くなりすぎてぎこちない態度で接することが、逆に差別を助長してしまっているのではないかと感じるのだ。

何か問題について真面目に考えることは重要だが、明るさやユーモアをもつことはもっと必要なのだ。

コメディの視点を持てたら生きやすくなる

TV番組の『人志松本のすべらない話』を見ていると、「今の話爆笑したけどよくよく考えると、内容じたいは大した事件がおきたわけでもない話だったな」と思うことがよくある。しかしもう一度見ても確かに面白いのだ。それは僕たちが普段経験しているような普通な場面をコメディをみるような視点で芸人さんたちがみることで、そこにある面白みを見つけて話しているからだろう。

 

テッドとジョンはとにかくよく笑う。映画中ずっと二人は楽しそうだ。しかしコメディの形態を外してこの映画の内容を考えると深刻な場面で溢れている。

テッドが人間としての権利をすべて奪われてしまったり、ヌイグルミだから愛する人間の彼女と子供を作ることができなかったり。しかしテッドは「じゃあ精子提供してもらうか」と気持ちは先に向いている。しかも「どうせならアメフトのスター選手の精子もらおうぜ!」とノリノリだ。現実ではとてもそこまで能天気にはなれないかもしれないが、なにか自分が辛いと思う出来事がおきても、それを面白く受け止める見方もあるということは知っていたい。極論を言えば、どんなに辛いことがあっても、笑って生きることも可能なのだ。為末大さんもこう語っている。

見方を変えられない人は、不幸せな人になりやすい。なぜなら不幸せとは突き詰めれば状況ではなく見方の癖だから。ある出来事を恣意的に編集するその癖が自分の人生にも向いている。そしてその癖は自分で気づく以外になおしようがない。

http://japan-indepth.jp/?p=12515 為末大学

 今自分が見ている世界は「真実の世界」ではなく、「自分の見方から見える世界」であることに気づくことが大事だと伝えている。

またMr.Childrenのアルバム「HOME」に収録され、アメリカ同時多発テロ(9.11)がテーマになっている、「もっと」という曲の中で桜井和寿もこう歌っている。

どんな理不尽も コメディーに見えてくるまで

大きいハート持てるといいな もっと もっと もっと

あれほどの悲惨な事態が起きてしまうこの世界をどう受け止めればいいか考えたときに、桜井和寿は「大きいハートでコメディーのようにとらえれたらいいな」と願ったのだ。

 

深刻なことを深刻に語っていては対抗できない。一つの見方に縛られずに、角度を変えて世界を見ていきたい。そこにコメディーのような視点も加えながら。 

 

 
 
 
 

 

      

   

     

   

     

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