今より子供の時の方が感情の衝撃がでかかった。
キレイなものを見ると、「きれ〜〜」とボーっとずーっと見ていた。
面白いと思ったドラえもんの映画を毎日のように観たりした。
何かがピンクでプルプルだった。
フルフルだった。
でもピンクでプルプルのままだとヤバいってどこかで気がついた。
攻撃された時に致命傷になりかねないぞと。
だから、だんだん灰色にしてカチカチにしていった。
カッチカチやぞ。
そして今、致命傷を受けなくなった代わりに
色んなことがそれほど衝撃をくれなくなった。
でも藤原基央に、バンプ オブ チキンに、いつもわからされる。
「カッチカチだって?それ表面だけで、中身プルップルやぞ!」
新曲「コロニー」を何度も聞いている。
かっこつけた言い方をさせてもらっちゃうと、何度聞いても歌詞の意味を完全に理解できない。できないのにわかる。
藤原基央の書く詞は本当に「歌詞」なんだと思う。
詞の一文一文を切り取って考えると、文章的におかしい、前の文と繋がっていない言葉が急に出てきたりする。
だから小説を読んでいる時の頭の使い方で詞を読むと、少し混乱する。
でも音楽と一緒になると、詞の中の言葉の一つ一つが文字通りの意味を超えて伝わってくる。
(どこだろう 今痛んだのは)
こう始まる曲「コロニー」の中にこんな歌詞がある。
聴こえた自分の音は
正体を当然知っていて
響いたら正しい矢になって戻ってきた
卑怯者 鏡の奥に
気付く前に目を背けた
助けを呼ぶひとつとひとつ 狙い合う
この歌詞を説明しろと言われてもできない。
自分なりの解釈もうまく話せない。
でも曲の中でこの歌詞を聞くと色んな物が自分の中から出てくる。
ずっと探しているつもりだったけど、本当はそれから逃げている自分を感じる。
きっと藤原基央の書く詞は、意味を伝えるための詞ではなくて、その人の中にあるものを湧きあがらせるための詞なんだ。
藤原基央が前に雑誌のインタビューで、頑張ろうとか好きだよって言葉とかも、いつか必ず死ぬという前提があるからこそ出てくる言葉だと思う。というような発言をしていた。
本当にこの人は強烈に死を意識してる。
強烈に死を意識している人が書く詞は強烈に切ない。
みんなまだ死んでないから。
藤原基央はこうも言っていた。
「僕は終わりがあるものだけを信じる。終わりのないものは信じない。時間とか。」
人はいつか必ず死ぬ。
それはとんでもなく悲しいことだけど、それがあるから信じれる。
そんなタフな考え方で、終わりを受け止めようとする人の曲はめちゃくちゃ暖かい。
そして当然厳しい。
「時間制限がある」という事実を叩きつけてくるからだ。
大事な人を大事にしようとしても、早くしないともうその人はいないかもしれないと。
「コロニー」という曲には切なさが大量に詰め込まれている。
メロディーも楽器一つ一つの音も声も歌詞も全てから切なさが出ている。
かけがえのないものを歌っている曲だから、切なくなる。
切なくなるほどかけがえのないものを歌っている曲だから、美しい。
どこだろう 今痛んだのは
どこだろう あなたは光
こう終わる曲「コロニー」を聴くと、劇中劇みたいに、この曲を聴いて自分の中のどこが震えたのか知りたくなる。
「カッチカチやぞー!!」と威勢よく叫んでいたのが強がりだったことを認めて、プルップルでピンク色な何かの中を探し始める。
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